わが家はチイが12歳、ユタが10歳の時に「子育ち」に切り替わり、以後、基本的に子ども達が望む生き方を尊重してきました。もちろん、それも最初から納得しながらできたわけではなく、度々訪れる“親としてのエゴ”との戦いがありました。
特にそれが現れたのは、ユタが中1の冬に不登校になった時だったかもしれません。しかもそれは、まるでユタを最大限に尊重しているかのように始まりました。ユタが望むこと、全てに応えようと努力し、親として出来る限りのことを尽くそうと考えました。しかし、学校を休み始めてほんの3ヶ月で彼が出した答えは「見守ってもらうしかない」ということでした。
「お母さんは悪くなかった」ユタはそう言って、私のエゴを振り切り、以来、自らの生き方を2年間探求し続けています。
11月末より、仕事の幅を広げるため「子育て支援員研修」を9日間受講したのですが、いかに自分の子育てが未熟であったかということを痛感した日々でした。
もっと言えば、子どもを1人の人間として尊重すること、彼らの最大の利益(ありのままに育つこと)を許さない社会背景を確認する日々でもありました。
ユタの「見守ってもらうしかない」という言葉には、『大人にありのままの自分を受け止めてもらえる経験が足りなかったことを、自分で補う覚悟』が含まれていたことを改めて確認し、子育てを母親一人で抱えてきたことの負担がダイレクトに子ども達への負担となっていたことを痛感します。
確実に“子育ての正解”はある。
「社会の一員として自由に生き、互いの利益を尊重し合える大人に育てること」。親や保育者、教員など、養育者には自由意志を持った個人を育てる使命があるのです。
しかし、それを実現することが現代社会では極めて難しいという現実。この状況で、家庭に、母親に、保育所や学校にだけ、正しい子育てを求めること自体が“子育ての不正解”なのではないか。
もっと寛容に、大らかに、子ども達が自分の力を伸ばしていける環境が、社会、地域に必要であると強く感じるきっかけを「子育て支援員研修」から頂いています。
家庭も保育現場も、小学校、中学校、高校、大学も…子どもに関わることを仕事にする現場は、想像を絶する過酷な状況に陥っています。学童やフリースクール、適応指導教室、児相、塾やスポ少もきっと例外ではないでしょう。
“子育ての正解”は、「地域と共に育てること」に他ならない。見えていないけど確実にある目の前の現実から目をそらすことなく、自分ができることを発揮し、自分の子どもに出来なかったことを未来の子ども達のためにできるようになりたい。その環境をどうやって作っていくかをワクワクしながら考えていきたいと思っています(^-^)
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