私たちをだいじにすること

ユタの不登校や母の生死、地域・学校の活動などと向き合い続け、ひとつの大きなことばにたどり着きました。
『権利』ということばです。

権利はあまり主張せず、権利の前に義務を果たすことを求められるのが、日本では一般的です。お互いを大切に思うがゆえに、コミュニティを優先してそうなってきたのかな、と想像できます。

不登校家庭になってみて、ドロップアウトした子どもの受け皿の少なさに驚きます。すべてのものは学校への復帰と適応が目的となっていて、学校になじめない子ども、経済力がない家庭は、教育を受ける権利を放棄するしかない状況です。

母の生死に12年間向き合って、日本の医療は“生かすこと”を中心に全てが整えられていることに小さな疑問を感じるようになりました。個人の「どう生きたいか」を表現する権利に対して、家族が手助けする術が提示される機会は少ないです。

地域・学校の活動に深く関わってみて、互いの権利を尊重し合う場が著しく減少していることを実感しています。住民や保護者の多くが、自分達の権利を侵害される危険と隣り合わせで暮らし、恐怖すら抱いていることが分かってきました。

そんな中『子どもの権利条約』について知る機会がありました。
この内容や日本が勧告を受けていることなどを知って、私達が恐ろしく無知な状態にあることが分かりました。本当の意味での『権利』とは、“思いやり”の土台となるものであり、家族、社会の幸せを考えるうえで最も大切なことだった。その真実を知らなかったことを心から悲しく思いました。
私達はこの無知な状況から、知らず知らずにお互いを傷つけ合い、取り返しのつかない深い傷みを皆が背負ってしまっている。子ども達にしてしまったこと、自分たちが親から受けたこと、親たちが祖父母から受け継いだもの…綿々と続いてきたこの悲しい事実。

ユタは幼児期からいつも本質を見ていて、納得するまで追求する息子です。
今回も同じでした。不登校という事態で私はその問いから逃げられなくなりました。おかげで、ユタが『子どもの権利』を身体で訴えているのだということに初めて気づくことができ、日本で起こっている様々な悲しい出来事の根底もそこにあるのではないかと考えるに至りました。

私たちをだいじにするということ。
そこに“思いやり”が必要である、ということは誰でも分かっています。
親子も夫婦も、先生と生徒も、友達も仲間も「お互いの権利を尊重し合う」ということを一緒に考えられれば。表現方法の違いや価値観の相違に関わらず、“多様な存在で良い”ことがきっと分かってきて、本当に温かな“思いやり”がそこでやっと生まれるはず。

「変わんなくていいよ。今のままのあなたがステキだよ」というところから始まり、それぞれが『なりたい自分』になれる。そんな社会をやっぱり目指したいと思いました(^-^)

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