みらいの教育

みらいの教育 -学校現場をブラックからワクワクに変える」という本を読みました。
教育社会学者の内田良さん教育哲学者の苫野一徳さんの対談と論文をまとめた一冊です。

対談も論文も「公教育は市民社会の根幹である」という共通理解から始められていますが、原理原則に立ち返ることが希望に繋がるということを再確認できた内容でした。

対談は「研究者よ手を取り合おう」「教育の特殊性は論駁(ろんばく)できる」「公教育の構造転換は起こせる」と3つのタイトルをつけて掲載されています。中でも興味深かったのは“教育の特殊性”という話題でした。おふたりの論文もそれぞれ“特殊”というキーワードで語られています。「特殊ではない」と言い切れる哲学の面白さを痛快に感じ、学校と市民社会が溶け合うことは本来なら当たり前の景色なのだと思うとワクワクします。
この“特殊性”から学校や先生が解放されることで、親子も地域もきっと同時に自由になる。共に手を取り合い、子ども達の学びを市民社会全体で支え、小さな市民を育てていく。そんな素敵な社会にしたいと感じました。

 

そもそもなぜ教育が“特殊”ということになったのか。「人格の完成を目指す営み」だからであるという理屈なのだそう。
しかし、苫野さんは「自由な市民を育てるということにほかならず、それ以上でも以下でもない」とし、その本質を論じています。内田さんは「教育固有の価値というよりも、子ども達の主体性を重視する教育学的視座は存在する」とし、無理に“特殊性”を強化し、教育を政治、経済から守ろうとしてきた過去を紐解いています。
教育の特殊性という無理なつじつま合わせから長い年月をかけて歪みが生じ、教育の当たり前と、社会の営みの乖離が起こっているのだなあということが本を読み進めると分かってきます。

「信念は突き詰めると、個人の欲望」という話もスッキリさせてくれる一言でした。信念のぶつかり合いだけでは具体的な変容に繋がっていかない理由はここにあるのですね。

“特殊性”と“信念”の本質について知るだけでこんなにも視野が開けてくるのだから、原理原則はやはり面白い。自分の思考をリセットし、“洗脳”から自由になって社会に働きかけていきたいと感じられる本でした。

さてところで、子ども達は今、“特殊性”や“信念”に縛られているのか?
不登校やホームスクーリングなど学び方の選択が広がりつつある背景には、きっと「本物の自由」を知る“新人類的”な子ども達の存在があります。古い価値観に縛られることなく、「自由と自立」を手にする子ども達は今後ますます増えていくのだろうと思うし、そのおかげで教育も絶対的に変革していくのだろうと期待しています(^-^)

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