たましいはみんな1人前

こども<おとな
子<親
末子<長子
生徒<先生
後輩<先輩
部下<上司
女性<男性  …などなど。

力関係や能力について、社会ではこんな風に認識されていて、固定化された「らしさ」を求められることが多々あります。
たましいの存在は同じ重さなのに、重く見られたり、軽く見られたりすることすらあります。

私の母は、こどもを同じ重さに見る人でした。
自分のこどもだけでなく、どこの子も同じように、重要な存在としてみる。母が亡くなった時、小学校の同級生が「おばちゃんは他のお母さんと全然違っていた。もう一度会いたかった」と泣きながら話してくれて、「やはり母はこどもたちを1人前として接していた」ということを確信させてもらいました。
かといって、理論的で話し上手な母だったかというとそんなことはありませんでした。
むしろ、旦那に反抗したり、こどもと本気で喧嘩したり、感情的な場面の方が記憶に残っています。素朴で純粋。話下手で不器用。自分のありのままと自分以外の人のありのままを同じようにだいじにしたいひと。そんな感じでした。

私は、3歳から1歳の弟と留守番をさせられ、きょうだいの算数セットの名前付けや、体育着の名前を書くこと、ボタン付けや靴下の穴の繕いなど、「上手だから」と任されていました。
小学校低学年の手書き文字や裁縫が、おとなより“上手”なわけはなく、きっとゆがんだり、ひきつったりしていたはずです。
でも私は、母の“上手”を信じて疑ったことがなく、もくもくと任された仕事をしていました。

末の妹は、料理が好きで“上手”と言われて、幼稚園くらいから一緒に母と台所に立っていました。
真ん中の弟はどうだったかな。でも、おしゃべりが好きで、好きな子の話しまで恥ずかしがらずにしゃべっていました。

おとなになった私たちきょうだい。
私は編集者に、妹は焼き菓子の職人になり、弟はWEBデザイナーですが営業能力を評価されています。どの仕事も決して安定した生活はできない職業ですが、みんな好きな仕事を精一杯できるおとなになりました。
おそらく3人とも、母の“上手”という評価がそのまま植え付けられ、仕事に繋がっている気がします。

 

我が家の子ども達が成長し、チイは役者、ユタは起業をゆるぎなく目指す姿に興味を持ってくれる人が増えていますが、何がそうさせているかと聞かれて、たどり着いたのは「たぶん母親と同じように子育てをしている」ということ。
私もずっとふたりを頼りに生活してきて、「育てた」よりも「育った」という感覚の方が強い。
彼らの成績や評価、宿題の進歩状況などには無頓着な子育てだったので、義理の両親や親せきなど親世代からはかなり心配されましたが、ふたりとも家族の一員としてなくてはならない役割を持ち、かつ自立して生きていくために自分と社会を見つめる子に育っています。
私や旦那さんにとって、最も頼りになるふたり。ふたりも私たちを頼りにしてくれています。親子というより、家族というチーム。そんな感じです。

このことを「すばらしい」と言ってくれる人がぽつぽつ現れていて、そうか、と考えるようになりました。
ありがたく、素直に、その言葉を頂き、改めてこの関係を大切にしていきたい。
そして、我が家が特別なのではなく、「たましいはみんな1人前」であり、どの家族も同じということを伝えて行ける存在になりたいと私も、こどもたちも考えています(^-^)

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