見返りを必要としない「ギフト」というスタート

「贈与」は英語にすると「ギフト」。
お金や土地など、財産を誰かに「ギフト」として贈る時に、「税金」を取るなんておかしな話だなあと感じていました。
また、その税率も自分と関係ない人たちが勝手に決めている、という感覚。
そんなところに、巻き込まれるのはなんだか気持ちがすっきりしない感じがします。

自分の意志で自分が選んだ贈り先に「寄付」をするのは良いですね。
お金だけでなく、時間を「投資」するのも良い。それはいずれ「自分へのギフト」となって返ってくることも多いです。
私の場合は空間を「提供」したりもしています。志をともにする人との出会いを求めて、場を設ける。これもたぶん、未来の自分へのギフトになりそうな予感がしています。

 

話を戻しますが、「贈与税」「相続税」は、富が一部の人たちに集中してしまうことを防ぐことや、“富の再分配”などを目的に、ヨーロッパで設けられた税金だったようです。
そう聞くと単純なもので、なるほど、必要だな、と思ってしまいます。
もう少し調べてみると、日本での導入は、日露戦争の戦費調達が最初の目的だったという資料を見つけました。2005年、相続税100年という節目の年に書かれたもので、多くの賛成を得て導入されていることも書かれていました。
戦争は決して認められることではありませんが、日本人の参戦は「世界の有色人種の権利」を守るため、いわば「平和のため」に行われていた、という背景もあるようで、国民と有色人種の平和のために相続税を制度化することになったのかもしれません。
こんなふうに歴史を振り返りながら考えると、様々な制度も試行錯誤の中でたどり着いていることが分かり、新しい感情が湧いてきます。

 

自分の富を独占したり、税金負担を極力抑えるよう工夫することは、今日、当たり前の行動であり、不思議に思う人はあまりいません。これも「経済優先の社会構造」から行き着いた、ごく最近の当たり前であり、人間の歴史をずっとさかのぼると、決してそうだったわけではないのです。
皆が平和に暮らすために年貢米を集めて備えたり、その日食べる分だけを採取して生き延びていた時代もある。

これだけ分断された世の中で、その時代の感覚に戻ることは難しいですが、「ギフト」だったら少しずつできる気がします。

皆にとって良い国に、と試行錯誤してきたこれまでの時代と同じように、これからも私たちは試行錯誤していきます。
「見返りを期待しないギフト」から、スタートできたら良いな、と思いました。

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